来週移植するよ
来週水曜日に最後から二番目の移植。
4回失敗して、あと2回失敗したら終わりにします。
エストラーナテープを貼るのも慣れたし、ルトラールの副作用も感じない。慣れすぎて飲み忘れ貼り忘れがあるのが怖いけど、基本的に私の体は大丈夫。あとはひとえに受精卵の持つ運だけが頼り。
モルディブ行こう、一度は韓国行こう、ラスベガスもいいね、そんな話をするときには、すでに移植の失敗が織り込まれているのだけれど自虐ではない。それでもいいし、子どもがいたらいたで楽しいし、という気持ちになっているだけ。
人生はどっちに転んでも生きているだけで面白いものだ、と思えるようになりたい。ときにはそんな余裕もなくすけど、また思い出せばいい。
子どもがいたら、、、
楽譜は小さいうちに読めるようにしてあげたいな。あんまり子ども扱いしないで、自分で考えられる子になってほしい。世界はそれほど怖いものじゃないと、大らかに前へ進めるような。
こども、欲しいのか欲しくないのか
さて、きょうも病院にやってきました。
今週期での移植を目指します。
しかし、なんだかこれで良いのかわからなくなってきた。
親の嫌なところがしっかり受け継がれた私と、よくできた妻に甘えて暮らした義父の生き様を見事に受け継いだ夫と、そこにこどもが生まれたらどんなモンスターになることか。
そして、武器の使用も辞さず、という方針で自衛隊がなし崩し的に戦争に参加してゆく。紛争地域で自衛のため、といってもつまり「人を殺してよい」ということ。
原子力発電のリスクを思い知りまだ事故を収束させる術すらわからないのに、結局さらなる原子力発電所を使用するばかりか海外に輸出するという恥知らずな経済のもとに成り立つ現在のわたしのくらし。
未来って、こんなに不安で悲しいものだっけ。子供の将来を心配しながら死ぬくらいなら、わたしの命が尽きたところで全て終わりにしたくなる。
性欲の結果として子供が生まれるのならこんなことは考えずに済むのだろうか。偶然授かる命なら、手放しで喜ぶことができるのだろうか。
もう、そんな機会は私にはないから、こうして苦しんで、自分を責めて、夫を傷つけて。
子供がいても悲しい、いなくても悲しい。どうやって生きていけばよいのか。
春から頑張ります
四月から頑張ることにしたから、三月の自分に甘すぎだったかもしれない。
早起き、お弁当をつくる、そうじ、料理、
先延ばし体質だから全てが実行できない。四月からやるから。
でもそれが明後日に迫ってきたよおいおい。
甘やかした分のツケを払うのは自分なわけだが、甘やかした内容とは別のところで首が締まって苦しい。仕事がはかどらないとか、夫との関係、先輩との関係がうまくいかないとか。
たぶん、生きる根本のところでズルをしたから、人生が歪んだんだろう。その根本のところをちゃんとしたら、別のボーナスがもらえるのだ。自分で生きるとはそういうことなのだ。
て、分かっちゃいるけど、時々失敗して思い出す。うん、失敗したらいいんだ。またちゃんと生きるためにさ。
卵巣が腫れています
流産の影響というより体質的なものじゃないかと思うんだけど、卵巣が腫れているとかで次の移植が延びた。左下腹部が痛いのはそのせいだったか。疲れたりストレス溜まったりすると左下腹部が痛くなるのは以前からのことで、ある程度年を取ると不調は婦人科に来るな、と経験的に感じていた。
3月に移植して、また流産するとしたらゴールデンウイークかな、と思っていたが少なくとも1ヶ月延びる。
子どもが欲しい!と強く念じた時期は過ぎ、もしも子どもがいた場合の不安がよぎる。通販サイトで「子どもの学校に行くとき便利!」という携帯スリッパ見ては、「面倒。てゆーか親がババァで子どもは迷惑かも」とか。別のマイナス思考が首をもたげている。
放射線の不安も、地球環境の変動も、子どもがいなければ悩まされることはないのかなと思ったり。
結局今の状況に不満を持ち、将来に不安を持つというこの性格を変えない限り、どんな将来も楽しめないのだろう。
私はいつでも、本当は幸せなのに。