tichiki’s blog

共働き夫婦のあれこれと思っていたら子育てと病気がやってきた日々の記録

母親が重い、ってやつ

70歳を過ぎた親がLINEを使っているのだから、多少鬱陶しいのはご愛嬌だろう。立て続けに質問してきて全部に答えるの面倒だったり、意味不明な写真を送ってきて誰かがリアクションしてくれるのを待ったり、他人のことなら「可愛い」と思うことすらできるかもしれない。
しかし、本当は電話したいのだということも分かっている。夫が休みだと書いた直後に着信があった。でも、親に電話をすると長くなる。切りたくない、というリアクションに困惑する。

互いの年齢を考えても、あと何回会えるか、何回話せるか分からないことは充分承知しているので、「時間がもったいない」と現在の軸で考えることに自己嫌悪を感じて、その嫌悪の感情がまた自分を苦しめる。苦しくて、電話一つが億劫で仕方がない。

親が重い、という感情は、本来はもっと分かりやすい毒親を持った人が持つべきものなのだろう。何一つ不自由なく育ててもらった私が、今更自分の都合優先で生きていることは、非常に後ろめたく思う。いざ会えなくなったら、心から後悔して自分の冷たさを責めるだろう。
でも、将来自分を責めないために、いま、苦しい感情にムチ打って親と親しく生きることが、辛いのだ。
何があった?私と、母親に。

そもそも、可愛い私、幸せな私でいることは期待されていないと思っていた。
出かける前に髪型を気にしていたら、「あんたのことなんか誰も見てないんだから」
高校生のころ先輩に呼び出されたとき、「男女の付き合いじゃなく、グループ交際にしなさい」
テスト勉強中には、「あんたが満点取ったら裸で町内逆立ちして歩いてあげる」
演劇を続けたかったとき、「そういうのは〇〇ちゃん(親友)みたいに才能がある人がやることだよ」
休日も返上して部活に励んでいたら「中庸を知りなさい」
マンションを買うときは「あなたがお金や住宅の管理ができるわけない」
結婚式のときは「お母さんのほうが綺麗だった」

たったそれだけのことだけれど、何度も何度も何度も繰り返して思い出してしまう。
お父さんの悪口、妹、弟の悪口、だったら私のことも人に悪く言うんだろう。
子供のころの日記には「生まれてきてごめんなさい」と何度も書いた。

そんなことを思い出し思い出ししている人生が辛い。早く手放したい。手放す方法が知りたい。

流産の手術をしたとき、家族に迎えに来てもらう必要があったのだが夫が仕事で来られなかったので新幹線で母に来てもらった。手術が終わり家に帰ったら「大掃除をしよう。使ってないベッド解体して」と鞭を打つ。悪気がないのは分かっているけど。確かに妊娠も流産も病気じゃない。

今回も、また妊娠したことを報告しようと思ったが、「また流産手術するとき立ち会ってもらうかも」という言い方をするだろう。それはあんまりだと思っているけれど、幸い電話をしたら圏外で繋がらなかった。

しばらく言わなくてもいいか。
本当は一番に喜んで欲しいのに。
結婚だって喜んで欲しかったし、マンション買うときも楽しみにして欲しかった。
恋人ができることも応援して欲しかったし、できないって分かっていることでも挑戦させて欲しかった。

親に孫の顔を見せたい。
それが治療の原点だったのに、言えない。
これまで3度も流産してがっかりさせてきたから?

どうしたら、自分の人生を生きられるんだろう。

五稜郭公園に行ってきた

函館は小さいながらよい街だとつくづく思う。もっと田舎だと思っていたけど、20年ぶりに訪れてみると仙台より断然魅力的なところだった。
市電が走る、明治の建物が残る、折衷様式の建築物に人が住む。

今回は永く憧れていた五稜郭の桜を見ることが叶った。満開をやや過ぎたものの完璧に咲き揃った桜の下を、星型に沿って散歩する夢が叶ったわけで、もっとおじいさんおばあさんになってから叶う夢かと思っていたものが、新幹線のおかげで前倒しになった。
青函トンネルを通る際はJR北海道の車掌さんによるウェルカムアナウンス。北海道、それだけで人の心を掴む場所へ、微かな嫉妬さえ覚える。

GW真っ最中ということで、おそらく普段はそれほどの混雑ではなかろう函館がパンク状態で、五稜郭タワーは40分待ち、函館山ロープウェイは60分待ち、ラッキーピエロは80分待ちという惨状で、働く人たちに疲労困憊の色が見えたけど、それもなんだか微笑ましい。
何軒も断られた挙句に滑り込んだホテルの目の前の居酒屋では、活イカの刺身、イカてっぽう、イカのかき揚げとイカ尽くしで楽しむこともできたし、特上1800円という破格のお寿司屋さんはアットホームで美味しかった。朝市では出汁昆布の使い方を教えてもらい、バフンウニを買って勝手にホテルの朝食のオプションにした。

今年はたくさんたくさん桜を見た。こうして五稜郭にも行くことができてしまい、なに、来春までに死ぬの?と思ってしまうほど、生き急いだ春だった。

これほど動き回っておりましたか、赤ちゃんは、陽性の判定を受けた。

総務の仕事

左遷か、と悶々した春から1年、一巡するうちに総務部の中でも役割分担ができて、局舎などデカいものは男性の同僚、車は後輩、人と関わる細かいものはわたし。
今日は社のOB会のお世話役だった。ホテルと宴会の打ち合わせは結婚式以来で楽しかった。けれど、年配者が多数集まる宴会が恐ろしくもあった。
蓋を開けてみれば、「あれ、誰ですか?」とコソコソたずねながら、「おぉ!あの方が伝説の、、、!」と感動したり、自分が20代だったころの職場の先輩が、現役当時さながらに立ち話する姿にタイムスリップ感を味わったり、勝手に楽しい時間だった。

思えば、わたしは間違いなくこの人たちに育てられてきたのだ。社会に出て20年になるから、18まで暮らした実家より長い間、この会社という社会に育ててもらったのだ。

「お世話係が親切にしてくれたから、参加できた。ありがとう」と、何度も上司に頭を下げてくださったという先輩。手術終わったばかりで、車椅子。でも今年が最後になるかもしれないから、と、ちょっと無理して出かけてくださったという。
現役当時はお世話になった関係ではないけれど、今でもこうしてわたしを育ててくれる人がいる。サラリーマンはがんじがらめで良い商売とは言えないらしいけれど、脈々と続くこの会社そのものが、人の繋がりによって人を育てる機関になっていると、確かに感じた夜でした。

節分を過ぎてから、本当にドン底を通り過ぎたな、という気がする。降り続けていた坂を、少しずつ上に登るイメージ。今がその登山口だとすると、三年後にはどんな高みにいるのかしら。若葉芽吹き山の桜が咲く、いまの季節の里山のような人生の景色が見たい。

やっぱり平気じゃない。平常心ムリ

明日、ようやく最初の注射を受けて、判定はさらに1週間後。そんな微妙な時期を他人には言えないので、一杯だけビールを付き合った。
今朝起きてみると、昨日までシクシクしていた左下腹部も何の感じもないし、胸の張りもなくなったような。
そうやって体の感覚の違いに気持ちを浮き沈みさせる。これじゃ前と一緒。どんな初期症状もルトラールの副作用だと分かっているのに。

気持ちが不安定になる原因のひとつは、もしかして通常なら生理が近いからかな?薬の副作用とPMS、両方とうまく付き合うのだ。

治療に消極的に見える夫に、嫌なの?と聞いた時。消極的な理由は、「ダメだったときにあなたが泣くから」だそう。
私が泣くのは、叶わなかった願いへの辛さや、子どもが授からないことへの悔しさなどではなく、ほんの一瞬でもこの世に生を受けた私たちの子どもを喪った悲しみなのだよ、だから仕方ないんだ、と教えたい。

移植から判定までの過ごし方

この2週間をどうやって乗り切ろうかと、苦しい日々を過ごしたものですが、もうプロの域。というか、走ったり腹筋したり、自由に過ごしてしまうのは平常心のなせる技と言って良いでしょう。
胸の張り、妊娠の初期症状だと思っていたのですが、これまでの経過を見るとただの薬の副作用。だってまだ着床すらしてないはず。

なんて、平気、と思いながらこうして記録してしまうのは平気じゃない証なのかもしれないけれど、平気な私と、平気じゃない私と、うまく付き合うしかないのです。

きょうはたくさん桜を見ました。だいぶ散りかけていたけれど、岩出山475号沿いの桜並木、大和町八谷館公園は素晴らしかった。
八谷館は大和インターそばだから、朝起きたらコーヒーを水筒に詰めてサンドイッチ持って高速道路で朝ご飯食べに行くのも良いね、なんて夢を語った。
よい休日でした。大安吉日、晴れ。

最後の移植

これで本当に最後にしようと思っている。初めてAAの卵に出逢えて、いま、お腹に帰ってきてもらった。
ほとんどの人が自然妊娠で神さまの計らい通りに子どもを持つ中、私はこんな選択をしてしまった、と自分を責めたりもしてみたが、認めるしかないのだ。結局子どもを授かったとしても、授からなかったとしても、それは自分を責めるべきものではないのだ。

最近、人の子どもが可愛いと思うようになった。ばかりか、もしも早くに授かっていたら自分の子どもくらいの年齢の子がコンビニや宅配で働いていたりすると、愛おしくて仕方がない。歳をとると、人間に対する愛情が大きくなっていくのだろうか。

最も愛しいのは夫。本当はこれから子供など持ったら大変な年齢、不安も大きいだろう。本当は、私と自由に旅行したり、お酒を飲んだりしたいのだろう。「赤ちゃん、きて欲しくないんでしょ本当は」と意地悪な質問をすると、「赤ちゃん、俺より可愛い?」と拗ねてみせたりして、本当の答えをはぐらかす。はぐらかしたのではなく、どっちを選んでも私を傷つけると思って、和ませてくれてるだけなのだろう。
こんなに優しい父親を持ったら、どんなに幸せな子どもが育つのだろう、それこそが、私がどうしても子どもが欲しかった最大の理由。親孝行、人間的成長、様々の「自分のための理由」を超えて、あなたの子どもが欲しかった。思えば結婚の理由もそうだった。この人の子どもを、この世に誕生させてあげたい。いつからか、ずっとそう思っていた。
だったらもっと早く結婚すればよかったのに。うん、それはそうなんだ^_^;

震災から6年

3月11日6度目の一日。朝から地元のラジオを聴いている。
亡くなった息子への手紙。あなたの人生はこれからだった。やりたいこともたくさんあったはずなのに。

生かされた自分は何をしたかったのだっけ。結婚式の日取りも決まり、式場と契約する予定だった日の前日、世界が変わった。報道に携わる身として、一度、自分を捨てる必要があった。大勢の人が未来を失った日、自分の将来を考えることを一度やめてしまった。
そらから二年ほどが過ぎて、遅ればせながらもう一度自分の人生を始めようと思ったけれど、それから3度の流産。津波で失った命ではないのに、震災が私の赤ちゃんを奪ったと、考えてしまう。
人のせいにしてはいけない、環境のせいにしてはいけない、自分の体調と未来を管理できなかった私が悪い。
復興へ、復興へと歩みを進めようとするいま、被災した人たちが歯を食いしばって頑張っているのに、なにも奪われていない私が、前に進めずにいる。夫は今もこの日が近づくと、休日もなく残業を重ねている。せっかくのトップシーズンにスキーにも行けない。
3月11日、あんなに悲しいことがなければよかったのに。
家族を失った人に、申し訳がたたないほど弱い自分。これからどうして行けばいい?生きたかった多くの人たちに、恥じないためにどうしたらいい?