tichiki’s blog

共働き夫婦世帯の楽しみと葛藤。仙台にて

親の気持ちを知る

子供を持てば親の苦労が分かる、感謝の念が湧くと言うけれど、全然湧かなかった。親の苦労は親の苦労、私の苦労は私の苦労だと思った。それも幸せな苦労だし、ぐらいの気分。それより、与えられなかったものを数えては恨んだりしてみた。しかし。

今さらながら「悼む人」を読んだ。人は一生のうちで「必ず」誰かに愛されている。忘れ去られて良い命などない。
わたしは、とふと思った時、腕の中に娘が眠っていた。無条件で宇宙一愛しい存在。将来を想像すると震えるほど。きっとわたしの母も、これほどに、どうしようもないほどにわたしを愛したに違いない。無意味に強く抱きしめたり、可愛すぎて泣けてきたり、大好きと百万回言っても足りないくらいに。世界中でいま、自分が一番幸せなんじゃないかと申し訳なくなるほど。
腕の中の娘を、わたしの名前で呼んでみた。母が40年前にそうしたように。やっぱり涙が出てきた。幸せで、幸せで。そうやって母の思いにシンクロしてみたら、何を与えられようとも、何を与えられなかったとしても、わたしは泣けるほど愛されていたことを確信できた。
わたしの場合、苦労に対する感謝などではなく、自分が心から愛されていた証拠を得られるのが、自分が親になることの副産物だった。母の動きが無駄に速くて雑なのは子どもがお腹を空かせないように、と急いだことの後遺症だし、なぜかトイレの扉を開けて用を足すのは、子どもが泣いているのが聞こえるように、またはトイレから声をかけるため、の後遺症。と、いま自分がそうしてから気づいた。
感謝、というよりは、そうやってわたし達を愛してくれた、完璧ではない1人の女性に対する愛しさに気づくことができた。物語に出てきた母親のように、死ぬ間際のことじゃなくてよかった。これから、わたしを愛してくれた愛しい存在を、できる限り大事にしようと、ようやく思えた。