tichiki’s blog

共働き夫婦のあれこれと思っていたら子育てと病気がやってきた日々の記録

もしも現場復帰ができたら

はて、もう一度番組を作ることができたら何をしよう。
日テレのプロデューサー女史は、別の部署にいながら企画書を提出して自分の夢を叶えたそうな。私は最初から希望の部署に配属されてしまったので、そのハングリーさに欠けているのかもしれない。
いま、番組を作れるなら。作れないまでも企画書を書くなら。

美味しいもののイメージを伝える
普通の人の夢や希望を聴く
マニアックな街の秘密を探る
ラジオを通して、まるで世界中に友達がいるような

そして、震災とどう向き合うのか。

出血があっても気軽に近所の病院に行ってはいけない

私の意識が低かったと反省するしかないのだが、妊娠初期の出血に対する不安でつい気軽に会社の産業医に相談してしまった。
紹介状を持参したので問題ないと思っていたが、受診した病院から不妊治療院へクレームが入ったとのこと。患者が勝手に受診してくれては困る、といったところか。
不妊治療院は不妊治療はしてくれるけれど、妊婦のケアまではしてくれないんじゃないか、というのがここまで三度の流産で生まれた疑問だったのだ。出血には何の説明もないわけで。
結果それは言いがかりだったのだろうけれど、「受精しました」「着床しました」「流産しました」の事実のみで、「治療」をしてもらった覚えはなく絶望的になっていたのだ。だから、出血の相談は不妊治療院ではなく産婦人科にしたかったのだ。それだけだ。
その目的も達せられ、1人の患者として納得もしたところだったが、それがクレームに繋がり、ひいては「今後うちからの紹介を受けてもらえなくなる」とまで言われた。つまり私のせいで後の妊婦さんが出産の病院を選べなくなるらしい。
一歩引いて、私の迂闊さを棚に上げて考えてみるど、病院の関係とは恐ろしいものだと思う。お前のとこの患者が勝手に来て困るんだけど、という病院の言い分が正論で、患者には病院を選ぶ権利はないということだ。主治医にはそれだけの拘束力があり、患者は従うしかないのだ。しらなかった、、、
安心、納得は二の次、医療のシステム優先なのか、はたまた義理優先なのか。
赤ちゃんは無事だったけど、怒られて帰ってきたわけでした。スミマセンでした。
なんか色々勉強になる。この悲しい気持ちも将来何かの役に立つことだろう。
病院の治療方針に家族が納得できないまま亡くなった祖父母のように、悔しい思いをしなくて済むといいな。

具合悪いぞこりゃ

先週、やっぱり7週目に入る直前で出血が始まる。黒い血がぼたぼたと出て、精神的に追い込まれる。土曜日を殆ど寝て暮らし、日曜日はあまり好きでもない祭に仕事で参加しなければならなかった。さすがに直会までは参加せずに帰らせてもらったけれど。
出血があるんです、と言ったところで、今通う不妊治療院では前回同様何の処置もしてくれないだろうと忖度して、会社の近くの総合病院に勤務医の紹介状を書いてもらった。
半日待たされて診察してもらったが、特に異常は見つからず、安静の必要もないとのこと。そもそも初期の流産は防ぎようがありません、だそうで、不妊治療院と同じご意見。三度の流産は、仕事で無理をしなければ防げたんじゃないか、という疑念を払っても払っても払い切れなかったが、別の病院でもその判断ならやっぱりそうなんだろう。分かってはいたけどようやく諦めがついた気分。
総合病院の若い女の先生がエコーを見て「赤ちゃん元気にしてますよ」というその物言いが気に入った。まるで保育所での様子でも伝えるような言い方で、なんだか赤ちゃんに実体を与えてくれた気がして。

つわりと言うほどではないが、息苦しさが続く。食べ物も、食べてみたら口に合わないものがあったりする。たとえば山菜。あんなに好きだったウドがキツい。

明後日、まだ元気にしてるだろうか。
私のお腹の中にいるはずなのに、まるで宇宙船のように遠くにいて、週に一度しか会えない。次に会えるかどうかすら分からない。これ精神的に苦しいわ、、、

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心拍が確認できた。これももう4度目のことだから、まだ不安しかなく喜べなくてごめんね。

なんでこんなに後ろ向きなんだろう私。ラジオで、「きょうは娘の小学生の草取りでした」と聞けば「うぇ、面倒」と思ったり、街ゆく障害のある方がたくさん目について、高齢夫婦で子供を持つことのリスクの高さに改めて不安を膨らませたり、
胎嚢が崩れていったあの超音波画像を何度も思い出したり、、、
前の病院の先生が言っていたではないか、まえの流産を忘れなさいと。妊娠継続の為にできることは何もないが、メンタルを保つことだけが重要だと。
子を持つ不安は誰にもあることだし、順風満帆な人生などありえない。けれど、治療を通じて得た命なら、不安に思ったり面倒だったりしちゃいけないんじゃないかと自分を責めるのだ。
これもそれも、ホルモンバランスの変化によるプチ鬱状態だと思うことにしよう。
わたしは、わるくないぞ、とな。わたしの人生、わるくないとな。

「過去の親の発言は忘れて、立派な大人になったこれからは自由に楽しく生きてください」と母よりLINE。「着物を着てみたい」と言った私に「着物はお金がかかるもの。貴女はのめり込む性格だから危ない」と警告しながら最近になって、「貴女の同世代の子たちが着付け習ってるんだって。楽しそうだよ」と言うから、過去に止めたじゃない、と反論したことへの訂正。

その通りだとは思うのです。囚われる私が弱い。「あんたなんかどうせ」と言われた言葉の延長に「あんたなんかどうせ親になんかなれない」という言葉が聞こえて。
大人なんだから、人のせいにしてはいけない。私に子供がいないのは、親のせいではない。

こんなぐらぐらした気持ちで赤ちゃん守れるだろうか。

母親が重い、ってやつ

70歳を過ぎた親がLINEを使っているのだから、多少鬱陶しいのはご愛嬌だろう。立て続けに質問してきて全部に答えるの面倒だったり、意味不明な写真を送ってきて誰かがリアクションしてくれるのを待ったり、他人のことなら「可愛い」と思うことすらできるかもしれない。
しかし、本当は電話したいのだということも分かっている。夫が休みだと書いた直後に着信があった。でも、親に電話をすると長くなる。切りたくない、というリアクションに困惑する。

互いの年齢を考えても、あと何回会えるか、何回話せるか分からないことは充分承知しているので、「時間がもったいない」と現在の軸で考えることに自己嫌悪を感じて、その嫌悪の感情がまた自分を苦しめる。苦しくて、電話一つが億劫で仕方がない。

親が重い、という感情は、本来はもっと分かりやすい毒親を持った人が持つべきものなのだろう。何一つ不自由なく育ててもらった私が、今更自分の都合優先で生きていることは、非常に後ろめたく思う。いざ会えなくなったら、心から後悔して自分の冷たさを責めるだろう。
でも、将来自分を責めないために、いま、苦しい感情にムチ打って親と親しく生きることが、辛いのだ。
何があった?私と、母親に。

そもそも、可愛い私、幸せな私でいることは期待されていないと思っていた。
出かける前に髪型を気にしていたら、「あんたのことなんか誰も見てないんだから」
高校生のころ先輩に呼び出されたとき、「男女の付き合いじゃなく、グループ交際にしなさい」
テスト勉強中には、「あんたが満点取ったら裸で町内逆立ちして歩いてあげる」
演劇を続けたかったとき、「そういうのは〇〇ちゃん(親友)みたいに才能がある人がやることだよ」
休日も返上して部活に励んでいたら「中庸を知りなさい」
マンションを買うときは「あなたがお金や住宅の管理ができるわけない」
結婚式のときは「お母さんのほうが綺麗だった」

たったそれだけのことだけれど、何度も何度も何度も繰り返して思い出してしまう。
お父さんの悪口、妹、弟の悪口、だったら私のことも人に悪く言うんだろう。
子供のころの日記には「生まれてきてごめんなさい」と何度も書いた。

そんなことを思い出し思い出ししている人生が辛い。早く手放したい。手放す方法が知りたい。

流産の手術をしたとき、家族に迎えに来てもらう必要があったのだが夫が仕事で来られなかったので新幹線で母に来てもらった。手術が終わり家に帰ったら「大掃除をしよう。使ってないベッド解体して」と鞭を打つ。悪気がないのは分かっているけど。確かに妊娠も流産も病気じゃない。

今回も、また妊娠したことを報告しようと思ったが、「また流産手術するとき立ち会ってもらうかも」という言い方をするだろう。それはあんまりだと思っているけれど、幸い電話をしたら圏外で繋がらなかった。

しばらく言わなくてもいいか。
本当は一番に喜んで欲しいのに。
結婚だって喜んで欲しかったし、マンション買うときも楽しみにして欲しかった。
恋人ができることも応援して欲しかったし、できないって分かっていることでも挑戦させて欲しかった。

親に孫の顔を見せたい。
それが治療の原点だったのに、言えない。
これまで3度も流産してがっかりさせてきたから?

どうしたら、自分の人生を生きられるんだろう。

五稜郭公園に行ってきた

函館は小さいながらよい街だとつくづく思う。もっと田舎だと思っていたけど、20年ぶりに訪れてみると仙台より断然魅力的なところだった。
市電が走る、明治の建物が残る、折衷様式の建築物に人が住む。

今回は永く憧れていた五稜郭の桜を見ることが叶った。満開をやや過ぎたものの完璧に咲き揃った桜の下を、星型に沿って散歩する夢が叶ったわけで、もっとおじいさんおばあさんになってから叶う夢かと思っていたものが、新幹線のおかげで前倒しになった。
青函トンネルを通る際はJR北海道の車掌さんによるウェルカムアナウンス。北海道、それだけで人の心を掴む場所へ、微かな嫉妬さえ覚える。

GW真っ最中ということで、おそらく普段はそれほどの混雑ではなかろう函館がパンク状態で、五稜郭タワーは40分待ち、函館山ロープウェイは60分待ち、ラッキーピエロは80分待ちという惨状で、働く人たちに疲労困憊の色が見えたけど、それもなんだか微笑ましい。
何軒も断られた挙句に滑り込んだホテルの目の前の居酒屋では、活イカの刺身、イカてっぽう、イカのかき揚げとイカ尽くしで楽しむこともできたし、特上1800円という破格のお寿司屋さんはアットホームで美味しかった。朝市では出汁昆布の使い方を教えてもらい、バフンウニを買って勝手にホテルの朝食のオプションにした。

今年はたくさんたくさん桜を見た。こうして五稜郭にも行くことができてしまい、なに、来春までに死ぬの?と思ってしまうほど、生き急いだ春だった。

これほど動き回っておりましたか、赤ちゃんは、陽性の判定を受けた。

総務の仕事

左遷か、と悶々した春から1年、一巡するうちに総務部の中でも役割分担ができて、局舎などデカいものは男性の同僚、車は後輩、人と関わる細かいものはわたし。
今日は社のOB会のお世話役だった。ホテルと宴会の打ち合わせは結婚式以来で楽しかった。けれど、年配者が多数集まる宴会が恐ろしくもあった。
蓋を開けてみれば、「あれ、誰ですか?」とコソコソたずねながら、「おぉ!あの方が伝説の、、、!」と感動したり、自分が20代だったころの職場の先輩が、現役当時さながらに立ち話する姿にタイムスリップ感を味わったり、勝手に楽しい時間だった。

思えば、わたしは間違いなくこの人たちに育てられてきたのだ。社会に出て20年になるから、18まで暮らした実家より長い間、この会社という社会に育ててもらったのだ。

「お世話係が親切にしてくれたから、参加できた。ありがとう」と、何度も上司に頭を下げてくださったという先輩。手術終わったばかりで、車椅子。でも今年が最後になるかもしれないから、と、ちょっと無理して出かけてくださったという。
現役当時はお世話になった関係ではないけれど、今でもこうしてわたしを育ててくれる人がいる。サラリーマンはがんじがらめで良い商売とは言えないらしいけれど、脈々と続くこの会社そのものが、人の繋がりによって人を育てる機関になっていると、確かに感じた夜でした。

節分を過ぎてから、本当にドン底を通り過ぎたな、という気がする。降り続けていた坂を、少しずつ上に登るイメージ。今がその登山口だとすると、三年後にはどんな高みにいるのかしら。若葉芽吹き山の桜が咲く、いまの季節の里山のような人生の景色が見たい。